佐伯市直川では、年の暮れから正月にかけて、地域の伝統に根ざした様々な準備と行事が行われます。年末の忙しい時期には、家々での清掃や準備が始まり、地域全体で迎える新年のために心を込めて整えられます。正月の準備は、スス払いから始まり、餅つきや歳暮の贈り物など、細やかな作業が続きます。また、年末から新年にかけての行事も盛りだくさんで、家族や地域の絆を深める大切な時期となります。この記事では、直川の正月準備と行事の詳細についてご紹介します。
第三章 年中行事
第一節 正月の準備
年の暮れを節季(セッキ)と言い、正月を迎えるための準備に人々は追われた。正月の準備は、十二月二十日ごろの暖かい日(ぬくい日)、スス払いや障子の脚り替えなどから始まる。
スス払い
スス払いは葉のついた笹(めん竹)で天井などのスス払いを払うもので、特にどの部屋から最初にしなければならないといったことはなかったが、通常は床の間のある座敷から掃除を始めた。
バイラ採り
女性たちは、十ニ月の中旬ごろから、特に忙しくなる。天気の良い朝の間、主に嫁たちは、弁当を手にして近くの山にバイラ採りに出掛けた。日常家で使う粗朶(そだ)を採りに行く仕事であるが、昼食時、持参した弁当を食べながら、嫁同士話をするのが楽しみだったという。また、このころ、麦踏みをするのも女性(主に嫁たち)の仕事だった。鍬で打って土をかけ、麦を踏むのであるが、寒い中、楽な仕事ではなかった。この外にも、茅切りが嫁たちの仕事としてあった。切ったカヤは、炭俵(ダツ)を編むのに使われたが、それは主に年寄り(ばあちゃん)の仕事だった。
誓文払い
旧十二月八日を「誓文払い」といい、山師の親方たちは山子を招いて馳走をふるまい、無事に一年の仕事が終わったことを感謝したという。また、商店や木材商では、この日小ミカンなどを客に投げ与えて、この一年の愛顧への感謝を示した。
セッキ銭稼ぎ
男たちは、十二月中ごろから暮れにかけて、炭を焼いた。セッキに焼いた炭を正月明けに出すもので、これをトシガマ(歳窯?)と呼ぶ。また、馬車曳きも男たちの仕事で、炭や材木を馬車に積んで佐伯市内に運び、いわゆる「セッキ銭」を稼いだ。暮れには、正月用の買い物をするほかに、酒・鬱油などの掛け取り(借金取り)が村々を回るため、現金を稼いでおく必要があったのである。掛け取りは、大晦日の夜が明けるまでしかいなかったので、借金を払えない者は、夜通し逃げ回ったという。また、借金取りの方も、提灯の灯が消えていない内は夜も明けていないとみなして、明るくなっても提灯の灯を消さずにしつこく取り立てて歩いた。
シマイ寄り
旧二十日ごろ、地区では一年最後の寄り合いが開かれる。区長(伍長)の家に各戸から代表(その家の主人)が集まり、諸カカリ(経費)の決算や共同作業の整理、役員(世話人)の選出・交替などを行って、一年間の苦労をお互いにねぎらった。酒は持ち寄りだったが、料理は区長方で用意された。
箸かき
昔は、自分の家で使うものは、可能なかぎり自給していたようで、箸かきといって、その家で使う家族や来客用の箸を、一年分用意した。時期を見て切っておいた竹を、年末の仕事の合間に削っておくのである。また、正月の料理に使うこんにゃくや豆腐なども、十二月の二十五日ごろから作り始めた。
餅つき
正月用の餅は、「正月もち」とか「節句もち」とか言って、暮れの二十五日から三十日ごろの間につく場合が多かった。ただし、牛の日は「火がさじい(早い)」といって避け、二十九日は「九(苦)がつく」といって、餅をつかなかった。二日ほど前に磨いで水に浸しておいた餅米を、だいたい一軒で一俵ほどついたというが、およそ二十臼ほどになる。二〜三軒一緒につく場合もあった。一臼目のもちを「かがみもち」にする場合もあれば(上直見・河内、下直見・水口)、お供えは白がぬくもってから⋯と、二白目以降から「かがみ」を作る地域もある(赤木・市屋敷)。餅は、「かがみ」のほかに、「あんこもち」「よもぎもち」「ひらもち」などで、正月に嫁が実家に戻って親戚や仲人にあいさつ回り(里あるき)をするときに配るための餅もついておかねばならなかった。また、「手ぬくめ」と言って、直径二十ほどの一重ねのもちを、嫁が実家や仲人の家に歳暮として届ける場合もあった(下直見・水口)。
「かがみもち(お供え)」は、床の間(年床さん)に供えるのが最も大きく、直径二五〜三〇センチメートルくらいが一般的である。おおむね二段重ねで、非を伏せた上に白紙を敷き、白米を散らばせた上に供えた。ひらもちを間にはさんで、三段重ねにするところもある(赤木・市屋敷)。その外は、小ぶりのものを作り、仏壇・神棚・荒神様・水神様などに供えた。地域によっては、墓・観音様・田の苗きり様の祠・農具倉庫・馬小屋などにもお供えをした。
その外の飾りとしては、氏神様のしめ縄張りや玄関の門柱に、松や榊などを結び付けて門松とした。
お歳暮・年とり
年の暮れには、日ごろ世話になった人や嫁の実家、親戚、仲人などに歳暮を贈った。最近は、ビール・酒などを贈る場合が多いが、以前はタオル・手ぬぐい・下駄・足袋などを贈るのが普通であった。
大晦日の日は昼すぎから風呂に入り、一年のアカを流して、家族全員揃って、御馳走を食べる。このときばかりは、会席膳一切を出して特別に作った、煮しめ、数の子・白和え・刺身・ナマスなどの料理を食べたり、お神酒を飲んだりする。一年間の労をねぎらうとともに、来年の健康を祈った。隣近所の家長などが互いに招き合って、夕食を共にすることもあった。蕎麦は昼ごろ打っておき、夜食として食べることが多かった。除夜の鐘が鳴り始めるころから、初詣でに出かける。地区の氏神様(天満社)や近くの薬師堂などにお参りに行った。観音様やお墓参りをするところもあった。
第二節 正月の行事
元旦
除夜の鐘が鳴り響くころ、人々は近くの氏神様や師堂などへ初詣出に出掛けた。正月の料理は、米の飯に煮しめや白和え、ナマス、数の子、刺身、きんぴらごぼう、煮豆などが中心で、年とり魚としては鯛が一般的であった。
午前中には「合い年始」または「出会い年始」といって、区長(部落長・伍長)の家にあいさつに行った。料理は区長の家で用意するが、酒は持ち寄りが多い。地区によっては、近くの庵や天満社に集まって、その年の地区の行事日程や役員改選などいろいろなことを決めるところもあった(「初寄り」)。このとき、世話やきが酒や料理を用意する場合が多い。また、三が日かけて地区の家々を回って酒や料理をご馳走し合った。これを「年始回り」というが、現在は地区の公民館などに集まって、会費を集めて仕出しを利用するところが多い。
里がえり
正月二日ごろから、嫁は実家や仲人の家にあいさつに行った。一重ねの餅をみやげにしたが、餅は大きいほどよく、小さいと「ヒンが悪い」といわれた。餅の外に、足袋・下駄・お腰などをみやげにした。長い者で二晩ほど泊まる者もいた。
手はじめ
「仕事始め」とも言って、正月二日には山や田に入って形だけ仕事のまねをした。地域によっては、男性は共有林の切り上げやタキモン採り、あるいは牛耕用のツナを作るツナ打ちを共同で行った。女性は、縫い物などを少しやった。しかし、基本的には、三が日は仕事を「よこう(休む)」のが普通である。
鏡開き
「一ー(十一)」の「並び一日」まではお供えを残しておくのが普通で、この日には、神仏に供えた鏡餅を下げ、手で割ってぜんざいなどに入れて食べた。
十五日正月
特に行事はないが、各家で料理を作り、仕事を休んで正月を祝った。前日の「十四日年」には、家で打ったうどんを食べた。当日は、小豆ご飯にもちを入れたものを食べるが、このとき柳の箸を使うと歯が丈夫になると言われた。
十六日正月
十五日は「よこう(休む)」だけで、正月を祝うのは十六日というところもある。
下直見では、十六日に先祖供養を行い、專念寺(真宗)からお坊さんがきて各家々を読経して回った。
二十日正月
「果つる正月」ともいい、仕事も午前中までで済ませ、午後は仕事を休んだ。
この日で正月は終わる、と見なすのが普通である。また、この日に山の神を祭るところも多く、重箱に白米(オブッショウ)やお煮付けなどを入れたものを座元(順番制)が用意し、お神酒は各自が持ち寄って山の神の祠の前に供え、お払いをして配会(お神酒ひろめ)を行う。主に、各戸から男性が一人ずつ出た。
お薬師さん
仁田原の内水では、正月八日に近くの庵でお薬師さんを祭り、ぜんざいを大釜で三杯も作っていたという。近在の者は、酒・肴を持ち寄って楽しんだ。弥生や北川の方からもお参りに来る人たちがいた。しかし、戦前に庵も本尊の薬師像も焼け、現在では行われていない。
観音様
地区によっては、旧十七日に「初寄り」として近く觀音様の庵に集まり、年間の予定などを決めた。料理・酒は持ち寄りで、山林伐採などがあれば、業者からの差し入れもあった。市屋敷では、現在は毎月十七日に「観音講」を開いており、女性ばかりが集まってお経をあげ、座元(当番)が用意した茶菓子や煮付けなどを食べた。
宇納間講
上直見や仁田原などでは、宮崎県北郷村の宇納間地蔵にお参りして、火除けのお札をもらってきて各戸に配る。ー「鎮防火災」宮崎県東臼杵郡字納間 全長寺ーと書かれたお札で、地区の人が交替でお参りに行ってもらってくる。お札は、カマドなどに貼った。二十日正月までに行くが、正月二十四日にお参りに行くところもある。
ー 直川村誌 P735~738 -
年末のスス払いから始まって、お餅をついたり、お歳暮を贈ったり、昔の正月の準備って、すごく大変だったんだね!その苦労があっても、みんなで集まってやるのって楽しそうで、素敵だなと思いました。昔は家族や地域のつながりが強かったんだろうなぁ。
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