直川村長の歴史物語|村誌から紐解く、地域の今につながる功績~初代・二・三・四代目~


第一節   村政四五年のあゆみ

昭和二十六年(一九五二)四月一日付けで、旧川原木と旧直見村とが合併し直川村が発足した。両村は歴史的・地勢的・地理的・政治的にみても似かよっており、古くから五か村と呼ばれ交流も盛んで同一視されていた。その関係上何度か合併の話が持ち上がったが、村有財産の違いなどのため合併までには至らなかった。
特に昭和十二年(一九三七)三月には強い県の指導と一部村議会議員の勧めもあり、当時の安藤愛一川原木村長、下岡傳作直見村長は合併を前提とした連合協議会を開催した。しかし、両村の住民にとっては寝耳に水の話で、反対の意見書なども提出され、合併の話は頓挫した。
戦後の混乱も一応収まった昭和二十五年になると県が町村の合併を強く進めたこと、また本村の旧二村とも庁舎や学校の老朽化、さらに昭和二十三年から新生中学校を両村組合立で運営していたこともあり、今度は十分に住民の理解が得られ、他町村のような大きな混乱もなく昭和二十六年三月、両村は村民大会を開催して意見をまとめた結果、合併賛成が大多数を占め、それぞれの議会において合併の議決を経て、合併促進法が制定される二年前に新生直川村の誕生となった。合併のときの条件で役場の新庁舎は現在地付近に決定されており新庁舎が完成するまでの間、本所を旧川原木村役場とし旧直見村役場は支所として業務が開始された。
貧しい村二村が合併しても急に豊かになるわけではなく、この四五年間は苦難の連続であった。歴代の施政が住民の協力を得て、全力を投入してさまざまな事業を完成させ、現在の直川村があるのである。以下合併からの四五年間を村長選挙と歴代村長の足跡をあゆんでみる。

初代村長


昭和二十六年四月二十三日に新生直川村初の村長・村議会議員選挙が行われた。前の川原木村長小野恒記候補と直見村長木下文作候補それに櫻井幸(さくらいまさき)候補、前農協協組合長泥谷謹(ひじやつつむ)候補、元青年学校校長平野嘉一郎候補の五人が立候補し、激しい選挙戦を展開した。投票の結果それぞれの候補が法定得票数の八分の三に達せず、得票数第一位の木下文作候補と得票数第二位の小野恒記候補の二人による決戦投票となった。
投票日の四月三十日は県知事・県会議員選挙も同時に行われたため投票率も九八・二折と高く、開票の結果一九一六票对一三二八票で初代直川村長に小野恒記(おのつねき)候補が当選した。

昭和二十六年は戦後の食糧不足がまだまだ続いており、供出米の割り当ては厳しく、農家であっても米が食べられない日が多く苦しい生活が続いていた。秋にはルース台風が襲来し本村にも大きな被害をもたらし、食糧不足に拍車をかけた。役場に残る記録を見ると、このため秋に予定していた合併祝賀会を延期し、翌年の四月十五日、十六日の二日間にわたって合併一周年記念事業として盛大に開催されている。組合立から村立となった直川中学校で祝賀会、合併に功績のあった人の表彰が行われた。翌日の敬老会では、三輪トラックで老人の送迎を行い、劇団による演芸会が開催された。青年団による村内駅伝大会なども行われている。そのときの下に敷いた筵(むしろ:藁(わら)・竹・蒲(がま)などの植物を編んでつくった敷物)を村民に払い下げた記録まで残っている。

このように初代の村長となった小野村長は合併と選挙で混乱した村民間の融和に努め、村立直見幼稚園・村立直川家政学校を設立し、幼児並びに子女の教育向上に貢献した。また行政の拠点となる新庁舎の建築も地権者や議会議員の協力により順調に進み、昭和二十八年二月落成、同年四月から事務を開始し直見支所は廃止された。さらに村の合併により二十七年の青年団、二十八年の婦人会とさまざまな団体の合併が続き、二十九年には生活に重要な位置を占める農業協同組合の合併にも貢献し、農業の発展と組合員の生活の向上に努めた。土木事業としては先の台風による橋や道路、井堰(いせき:川の水をせきとめる所)の復旧工事に力を入れ、さらに村道黒岩向線を開通させ、横川と仁田原が近くなった。生活面としては、戦後の住宅難に対処して昭和二十六年に川又団地が五戸、翌年には下口団地四戸が建設された。また、村営の診療所を設置し住民の健康維持に配慮した。昭和二十九年には、合併後初の村の長期計画である新村建設計画が策定され、明るく住みよい豊かな村づくりの振興総合計画を示した。

二代村長

任期満了による村長選挙が昭和三十年四月三十日に行われ、前回の決選投票の雪辱に燃える木下文作候補と現職の小野恒記候補の二人で争われ、村を二分する激しい選挙戦が展開された。開票の結果一五〇九票对一三八八票で二代目村長に木下文作候補が当選した。

昭和三十年の経済白書は「もはや戦後ではない」と発表するまでに至った。第二次産業の復興のもとに第二次、第三次産業の人々の生活水準は向上し、農家を追い越して行った。さらに戦後の復興と産業の成長による木材の需要が急増し、木炭などの林産物も高騰し、本村のような山村にとって林業の活性化が村の重要施策となった。

有線放送施設
有線放送施設

このような状況の中で、二代目木下村長は積極的に拡大造林を推進し、直見・川原木両森林組合の合併に尽力し、林業興発展に貢献した。また県が郷土新建設運動を推進したのを受け、本村では住民の生活水準の向上に努め、久留須地区と間庭地区に村内初の簡易水道施設を建設した。両地区はもとより神ノ原・川又・向船場・仁所倉・沖ノ津留などにも給水された。さらに村営住宅神ノ原団地一一戸、竹ノ下団地一三戸を建築した。また有線放送施設を設置し、村広報機関として活用され、生活・生産に関する知識の向上、各種団体と村民の連絡に供され、過去に要した経済的、労力的負担は解消された。昭和三十二年四月から国土調査法による地籍調査が県下で最も早く開始され、その成果は現在でも多くの利用がなされている。


三代村長


昭和三十四年四月三十日、任期满了に伴う村長選挙三代村長の投票が行われた。初代村長の小野恒記候補と泥谷謹(ひじやつつむ)候補の二人による選挙戦となり、開票の結果一五一五票対一四四三票となり七二票の小差で三代目村長に小野恒記(おのつねき)候補が返り咲いた。

三代目村長の課題は老朽化した川原木小学校と直見小学校の統合問題であった。小野村長は学校教育に熱意をもって取り組み、昭和三十五年三月二十三日村議会で両校の統合が議決された。同年四月一日から新校舎が完成するまで、両校を直川村立直川小学校の川原木校舎、直見校舎とした。

直川中学校
直川中学校

さらに生徒の増加が予想されたため、現在地が狭い中学校の移転も決定され、同時に大字上直見・上ノ原に敷地造成工事が着手された。この間、台風により造成地が崩壊したため、復旧工事の法面作業に全戸から二回にわたって奉仕作業に出夫してもらうなど経費の削減に努め、村長や村民にとって多大の労苦があったことがしのばれる。小学校の校舎が完成し、移転、授業が開始されたのは昭和三十七年九月一日からであった。一年遅れて中学校も完成し、移転授業が開始された。また小野村長は林業直川の基礎となる大分県林業試験場直川試験所の誘致にも成功し、村立家政学校跡地に設置された。昭和三十六年には合併十周年記念事業として大字仁田原地区に三八彩の村営林造林を行い基本財産づくりに努めた。生活面では仁田原地区に田中団地五戸、萱垣団地一五戸が完成、赤木簡易水道施設の建設など生活環境整備にも力を注いだ。しかし、このような公共投資が過大となり、昭和三十七年度から財政的にはたいへん逼迫していた。 


四代村長


昭和三十八年四月三十日、任期満了による村長選挙泥谷谨で旧川原木村長から通算四選を目指す現職村長の野恒記候補と旧川原木村長選挙から数えて四回目の出馬となった泥谷謹候補の前回と同じ顔触れの立候補となり、開票の結果一六二五票对一二三一票で泥谷謹(ひじやつつむ)候補が雪辱、初当選を果たした。

第4・5代村長 泥谷謹


第四代村長に就任した泥谷村長は農林業経験の長い技術者で、前期の村政が、学校の整備、住宅の建設、簡易水道の設置などの大事業を行った反面、財政的に逼迫し、借金財政に不安をいだく村民の応援を受け、健全財政への建て直しに努力した。

赤木ダム
赤木ダム

特に農林業の技術経験を生かし、基盤整備の重要性を説き、大分県で最も早く第一次林業構造改善事業の地域指定を受け、林道の開設事業を中心にさまざまな林業施策を積極的に行った。合併統合された学校に学校体育館の建設を行い、児童生徒のスポーツの振興と、これまでの農繁期だけの季節保育所に替わる村営の保育所を設立し、児童福祉にも貢献した。その外議会の議員定数の一六人から一二人への減員を行うなど、財政再建と基幹産業の育成、強化を図った。また、本村は台風の常襲地帯で毎年大きな被害を受けていた。このため、県に働きかけ赤木地区に防災ダムの建設が決定し、昭和四十二年四月着工され昭和四十六年二月に完成した。

ー 直川村誌 P437~440抜粋 -

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