日本の秋といえば、五穀豊穣。直川の秋から冬の行事も、豊穣の祈りや感謝を込めた行事ばかりです。神様にも、子供にも、分け隔てなく、恵みを享受する直川の秋から冬のイベントは素敵ですね!
第四節 秋から冬の行事
八朔
旧八月一日は「八朔の節供」といって、各家の主人が正装して(古くは羽織・袴だったようだが、その後は新しい仕事着などに代わっていった)、鎌を腰にさし、竹の枝を持って自分の田を回って「良くできました」と褒めて歩いた(作ほめ)。ただし、オナゴシ(女性)が行くと「鬼が来た」といって、女性が行くことを忌み嫌った。各家では、簡単な御馳走を作ったり、饅頭をふかしたりして、無事に刈り入れまで過ぎることを祈った。
二百十日
立春から数えて二百十日目は九月一日ごろにあたり、稲の開花時期と台風の時期が重なるため、農家では厄日として注意を要する日とされた。赤木・市屋敷での話では、二百十日の前日を「風流し(かざながし)」といって、台風除けの祈願を行ったという。この日、各家から一人ずつ出て、近くの観音様の庵に集まってお籠りをし、お経を読んで直会(なおらい)をした。酒や料理は、それぞれが持ち寄った。さらに十日後の「二百二十日」も、同様の理由から厄日とされた。
月見
旧八月十五日は仲秋の名月で、各家々でも月見をした。門口に置いた箕の上に、お神酒・団子・ゆでた芋(カライモ)やゆがいた栗などを供えた。地区によっては、一升升の上にロウソクを立てた。子供たちは、供えたイモなどを盗んで回った。この日は、子供たちの供え物盗みが認められていたので、年長者をリーダーに、袋をもって盗み歩いた。たくさん盗んだ子供ほど「さかしい(賢くて機敏)」と言われた。旧九月十五日にも同じような行事があるが、このときは焼き米を唐臼でついたものを供え、やはり子供たちが盗んで歩いた(「焼っ米盗み」)。
作祭り
毎年九月一日ごろ、氏神様で豊作祈願の後、各家から御馳走を持ち寄って酒盛りがあった。夜になると、青年団の主催で相撲が催された。近在の村からも、相撲好きの若者たちが「今夜は〇〇の氏神様の相撲に行くぞ」といって、友達と誘い合わせてやってきた。佐伯の町からは、商店が多くの出店を出して賑わいを見せたが、現在はほとんど見られない。上直見では、現在も二年ごとに肘切神社と富尾神社の秋祭りとして、杖踊りや稚児踊り・獅子舞などが奉納されている。また、仁田原では、昔は神主による神楽の奉納が行われている。
秋道つくり
九月の終わりから十月の始めにかけて、各地区では集落の共同作業として、道路の補修などが行われた。各戸から男が一人出るのがきまりだったが、どうしてもオナゴシ(女性)しか出せない場合は、いくらかの歩合金(出不足金)を納めることになった。
お日待ち
仁田原での話では、旧十月十日は「お日待ち」といって、座元の家に泊まって朝日が昇るのを待つことが、戦前まで行われていた。甘酒や煮付けなどを座元が用意したが、賄いの手伝いに二人ほど出た。
亥の子
旧十月の亥の日に、亥の子餅をついて祝った。万病を除く呪い(まじない)とも、猪が多産であることから子孫繁栄を願ったものともいわれる。十月最初の亥の日(一番亥の子)に、小学生や青年会が、小さな俵に紐の付いたもの(又は、ワラをまるめて束ねたもの=ホテ)で戸口の地面をたたき、各家を回って亥の子突き(打ち)をして歩いた。突いてもらった家では、子供たちに亥の子餅(あん餅)を配った。各家を回り終えると、持っていた袋が餅で一杯になったという。子供たちが亥の子突きに来たときに述べる口上には、地区によって若干の違いがあるが、代表的なものは次のとおりである。
亥の子一つ祝いましょう。
ここん旦那さまは、ブンブン分限者、カンカン金持ち
福の神は入ってこい、貧乏神は出て行け(下直見・水口)
ここん旦那さんは、ブンブン分限者、カンカン金持ち
打ってもへらん、こづいちもへらん
エイヤサー エイヤサー
貧乏神は出て行け、福の神入ってこい
エイヤサー エイヤサー
(上直見·河内)
亥の子突きに行っても餅をくれない家があると、
亥の子餅つかん奴は、鬼生め 蛇(邪)生め
角のはえた子生め
と言って、悪口をはやすこともあったが、今ではこうした悪口は言わないようになった。「亥の子突き」も最近ではあまり行われなくなったが、下直見の新洞や仁田原の大鶴などでは、現在も行われている(平成9年3月12日直川村史発行 現在)。二番目・三番目の亥の日については、あまり祝いの行事は行われていなかったようだが、二番亥の子、三番亥の子として、餅をついて自分の家で食べたり、嫁の里帰りに持たせたりした。
冬祭り
麦植えが終わったころ(今では、十二月初めから中旬にかけて)、各地区では氏神様に参拝して、その年の豊作を感謝するとともに家内安全を祈願した。祭り当日の前の日をヨド、次の日をウラツケと呼び、各家では御馳走を作って、親戚を招いたり別の地区の人たちを招いたりして、盛大に祝宴を張っていた。
荒神祭り
農作業が一段落した冬のころ、荒神祭りをした。各家庭の炊事場には必ず荒神様を祭ってあり、朝夕に鎮火防災を祈った。山林を売ったり、牛を売ったりして特別な収入があると近所の者を集め、荒神様にお経をあげ、餅投げや酒肴を出して振る舞った。
ー 直川村誌 P742~744 -
残念ながら、今では行われていない行事も多く、昔を懐かしむ大人の方も多いのではないでしょうか?今回の『直川村史デジタル化シリーズ』では、希少な写真や秋のお祭りの写真をデジタル化したので、そちらもぜひ見てください!
コメント