春から夏にかけて、直川村ではたくさんの楽しい行事が行われます。
私も子どもの頃、家族と一緒にいろんなお祭りや行事を楽しんだ思い出があります。節分の豆まき、ひな祭りの人形飾り、男の子の鯉のぼり。春が来ると、村中がワクワクする雰囲気に包まれるんです。夏はやっぱりお盆!家族がたくさん集まります。
今回は、そんな春から夏にかけての行事についてご紹介しますね!
第三節 春から夏の行事
節分(豆まき)
立春の前の日を節分といって、豆まきを行った。特に変わったことをしたわけではないが、 「鬼は外、福は内」と唱えながら、煎った豆を玄関先・縁側・台所などにまいて、邪鬼を払うものである。この豆を年の数ほど食べると長生きするといわれた。
ひな祭り(雛節句)
三月三日は女の子の節句で、長女が生まれたところには、嫁の里方や親戚から難人形や人形の掛け絵、押紙の雛などが贈られた。家では、煮しめや天婦羅・かまぼこなどの料理を作り、白酒などでお祝いをした。地区によっては、節句餅を二斗(三〇キログラム)ほどついて、小餅・よもぎ餅・菱餅などにした。この地区では、「節句歩き」といって嫁が実家や仲人へあいさつに行くが、このとき手土産として菱餅を持たせた。
のぼり揚げ(ブンブンたこ揚げ)
長男の初節句を祝う「のぼり揚げ」が、直川村では佐伯地区同様、三月三日に行われる。畳一枚分ほどの「のぼり(凧)」にその家の家紋や武者絵・子供の名前・龍の一字などを描き、田にムシロをひいて持ち寄った料理や酒を飲み食いしながら、親戚一同でのぼり揚げを行った。男の子の初節句を祝う「のぼり揚げ」が、三月に行われるようになったのはいつのころからか不明だが、佐伯市史によると「佐伯特有の三月の凧揚げは、いつのころからか参勤交代で江戸にのぼった藩侯が、たまたま正月に行われた江戸の凧揚げを見て帰り、佐伯でものぼり(凧)を揚げよと命じて揚げさせたのが初めで、その日が三月三日であったという」。本村では、現在行われている地区は少ない。電線などが多くなって安心して凧を揚げる場所がなくなり、凧を作る人もいなくなって今は行われていない地区が多くなっている。
金毘羅さん
地区によっては(赤木・横川)など、旧三月十日は金毘羅様のお祭りをする。山の祠に、地区の人たちが集まり、お経を詠んでお神酒をあげた後、持ち寄った料理を食べた。座元が、祠(ほこら)に通じる道の草刈り(道切り)を行う場合もある。同様の祭りが、旧十月十日にも行われる。地区によっては、餅を持ち寄って、餅投げを行う。
お彼岸
彼岸会の略で、春分の日を中心に前後七日間をいうが、中日には仕事を休みお墓の掃除をして花・水・線香などを供え、お参りをした。お寺にお参りをして説教を聞く場合もあった。 「波岸餅(彼岸団子)」を二臼ほどついて、よもぎ餅などにし、神仏に供えた。各家では、仏壇に御霊供(ごりょうぐ)や彼岸餅を供えた。
野焼き
以前は、春が近づくと、各地で野焼きが見られた。各家から一人ずつ出たり、あるいは人を雇ったりして行った。まず、火道となる草を払い、上の方から少しずつ焼き下げていった。戦後は、山の多くが樹木に覆われて原野がなくなり、野焼きを見ることもなくなった。
お大師講(お大師さま)
毎月二十日をお大師さまの日とし、座元(輪番制)に煮しめなどを持って集まり、食べ合った。座元によっ
ては、この日餅をついた。三月二十一日は「御日」といって、特に盛大に弘法大師の遺徳をしのんで、地区内の大師堂や観音堂あるいは座元の家で「お接待」をした。お餅やぜんざい・果物・お菓子などをお参りに来た人たちに配って接待したものであるが、現在ではあまり行われていないようである。
甘茶もらい「灌仏会(かんぶつえ)」
四月八日(最近は新歴が多い)は、お釈迦様の生誕日で、各お寺(赤木地区では正定寺など)のお堂などに、釈迦の誕生仏(「天上天下唯我独尊」と唱えて天を指さしている像)を安置して、甘茶を紙える。参詣に来た人たちは、備えてある小さめの柄杓で甘茶を誕生仏にそそぎかける。甘茶を家にもらって帰り、それで墨をすって字を書くと上手になるといわれた。
八十八夜
立春から八十八日目の日で、この日に摘んだお茶を飲むと中風(ちゅうぶう:脳血管疾患)にかからない、あるいは万病にきくといわれた。また、このころは「八十八夜の別れ霜」と呼ばれ、霜も障りなくなるため、種籾をカマスに入れて川につける(種かし)など、種まきの準備が始まる。
端午の節句
三月三日の上巳、七月七日の七夕、九月九日の重陽などと並んで五月五日は五節句の一つに数えられ、男児の節句とされている。長男のいる家では、鯉のぼりを空に翻したが、 妻の実家からは武者人形などを描いた幟(立て幟)が贈られた。各家の軒先には、よもぎと菖蒲を刺して飾り、魔よけとした。また、柏もちなどを蒸して、子供の健康を祈った。
田上がり(サノボリ)
五月の初めごろには苗代作りが始まり、五月末までには麦刈りを済ませ、田植えの準備にかかった。
田植えは、近所の人たちと協力し合って行ったが、六月までに終わらせないと「石鎚山にお参りに行けない」と言って急いだ。田植えが終わると、田上がり又はサノボリと言って、二〜三日ヨコウた(休んだ)。このとき苗を洗って荒神様に供え、田植えが無事に終了したことを報告し、豊作を祈願した。供えた苗の乾いたもので、お盆前には仏壇のお磨きをした。各家では、パラズシや汁粉、煮しめなどの御馳走をしたが、地区によってはそれらの御馳走を持って神社に集まり、全体で豊作の祈願(予祝)を行った(「根付けごもり」)。
大祓(オンバライ)
旧六月三十日(新暦の七月二十九日の地区もある)は、昔から人々の罪や汚れを祓い清め、無病息災を祈願する日とされた。この日は、七回水浴びをすると病気にかからないとされ、子供だけでなく大人も水浴びをした(川で泳いだ)。早朝の草切りを済ませ、牛馬を川に引いて行き、水浴びをさせたり全身を洗ってやったりもした。子供たちは、泳ぐ前に「ゆんべ(昨夜)猿食ってうまかった」と三度唱えて水に入ったという。これはカッパ封じの呪い(まじない)とされる。仕事を休んで、佐伯市の見立て細工を見に行く者もあった。
雨乞い
夏、日照りが続くと、雨包いをする所もあった。地区によって内容は多少異なるが、多くは高い山に登って太鼓をたたき、神仏に祈った。赤木(市屋敷)では、小田の池に三升樽をかついで「水もらい」に行き、途中かついだ樽を地面に置かないようにして持って帰り、祠にかけて祈願したという。また、上直見では、山下の池から水を持って帰ったといわれている。
七夕
この地方では、特に七夕の行事を行った古い例はない。戦後は、子供たちが笹に飾りや短冊をつるして願い事を書くことも行われたが、古い習慣ではないという。ただ、田植えが終わった後のサノボリのとき、神に供えた苗の乾いたもので、仏壇の用具などを洗うこともあった。
土用
立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前十八日を土用と呼ぶ。一年に四度あり、その最初の日を土用入りという。一般的には、立秋前の「夏の土用」だけをいい、夏バテしないように鰻など精のつくものを食べる。以前は大掃除をするところも多く、日ごろあまり掃除をしない便所や畳の下などを中心に行った。昭和の初めごろまでは、役場の職員や駐在所の巡査などが日時を決めて掃除の検査に回っていた。衣服・書物・掛軸などを干して虫を払う「土用干し」もこのころである。
夏祭り
旧七月の上旬から中旬にかけて、各地で夏祭りが行われる。上直見では、前日をヨドと言い、共同で神社などの草切りを行い、各家では饅頭(ふくらかしもち)や御馳走を作り、祭り当日に食べた。次の日も「ウラツケ」といって仕事を休んだ。ヨクナシ(欲張りな人)の中には仕事を休まない者もおり、「ヨコウ日にヨコワン人はバラスをかるわする」といった。仁田原(内水)では、旧七月十日に石鎚さんの祠に集まってお神酒あげをするという。ここは、明治四年に勧請(かんじょう)した霊場とされている。
盆正月
盆は正月と並んで、祖霊を祭る大切な行事で、「盆正月」という場合もある。盆月の七日は「うら盆」といって、墓の掃除や仏壇の掃除を行った。また、上直見の河内地区などでは、この日にカンス(茶ガマ)をつき粉を使って川で磨かせられたという。十二日は「水まつり」といって、花や水を持って墓参りに行く。地区によっては、湯飲みに水を入れ、各部屋に置いた。
十三日は、「草きり盆」といって、牛飼い用の草を切りためておく。できるだけ良い草を切って、腐らないように川につけておくところもあった。翌十四・五日は仕事を休む(ヨコイ)ことが多かったので、そのための牛馬飼育用の草切りであった。盆には、饅頭(フクラカシ)がつきものであったが、おおむねこの十三日にこしらえることが多かった。また、水もち(粉団子)や精進料理用の豆腐や油揚げなども作っておいた。仏壇の飾り付けもこの日までに済ませるのが普通で、季節の花や霊供膳(りょうぐぜん)などを供えて、祖先の霊を迎える準備をする。
十四日は、仕事を休んで、一家そろって墓参りに行く。夕方早めに行き、墓の前でタイマツ(コエ松・松の木切れ)を焚き、線香をあげて先の霊を迎えた。十五日にも墓参りに行くが、このときは夕方だけ遅く行く。亡き人の霊は、できるだけ早く迎えに行き、遅く送りたいのが人情であろう。送りが遅くなるように、十五日の墓参りには、わざと足の悪い人(足腰が弱い人)をつれてゆっくりゆっくり墓参りに行ったという話もある。地区によっては、おみやげの団子として、米の粉団子の細長いものを作り、十五日の朝仏壇に供える。仁田原では、十五日の夕方、「ショウロウさん」といって、板にタイマツ(松の木切れ)を載せ、火をつけて川に流した。
初盆の家では、特に仏壇の飾り付けも華やかで、親戚などから贈られた定紋入りの提灯を、玄関や座敷の中に提げた。お参りは、親戚だけではなく、地区の人たちもお参りに来た。また、初盆の家の庭では盆踊りも行われたが、聞き取りをした限りでは、地区によってはあまり行われてはいなかったようである。盆踊りをした所では、踊りに来てくれた人たちに、料理や酒をふるまった。
「盆歩き」と称して、嫁は里の実家に土産物を持って、一〜二日の間帰ることがあった。実家では、親兄弟が嫁を迎え、婚家での気疲れをねぎらった。土産として、フクラカシ(まんじゅう)だけでなく、ソーメンやタオル、さらし(手ぬぐい)などを用意したが、これらは仲人や世話になった知人たちへの中元としても贈られる。
ー 直川村誌 P738~742 -
こうして振り返ってみると、直川村の春から夏の行事って、子供や先祖など、家族を大切に想う行事ばかりだなと思います。みんなで一緒にお祝いしたり、お祈りしたりする時間が特別なんですよね。
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