直川村長の歴史物語|村誌から紐解く、地域の今につながる功績~第五・六・七・八・九代村長~

代村長

任期満了による村長選挙が昭和四十二年四月二十八日に行われ、現職の泥谷謹候補と元村長の小野恒記候補、元助役の柴田幸太郎候補の三つどもえの戦いとなり、小野候補五二〇票、柴田候補八一五票で、一二九〇票を獲得した泥谷謹候補が当選し第五代村長となった。連続当選となった泥谷村長は一期目の村政で財政の再建に努力した実績が評価されたもので外の候補に圧勝した。

二期目は公約であった農林業の基盤整備について、積み残しの農業面では農業構造改善事業の指定を受け、圃場(ほじょう:)整備事業と桑園団地の造成、さらに、陰りの出はじめた米作に替わる作物として、アイリス栽培などを奨励し農家所得の向上を図った。また農協の合併にも力を入れ、昭和四十四年三月には弥生町の明治・上野・切畑の三農協と本匠村の合計五農協による広域合併がなされ、大分豊南農業協同組合が設立された。林業面では第一次林業構造改善事業の追加事業の指定を受け、林開設を進めた。

また、厚生面では昭和四十五年に佐伯地町村圏事務組合を設立し、それによる、し尿処理業務が開始、村営火葬場も同年に新設され住民の福祉の充実を図った。また回線の混雑、老朽化により有線放送電話が廃止されたのに伴い、農村集団自動電話を導入し通信の強化を行った。


第六・七代目村長

任期満了による村長選挙が昭和四十六年四月十八日に告示され、前助役の戸高長生(とだかおさお)候補が早くから立候補の意思表示をして立候補の届けを行ったが、外に立候補者がなく無投票当選となった。同時に行われた村議会議員選挙も定数一二人が無投票となり、村長選挙と合わせて無投票当選となった。このことは直川村発足以来、初めてのことで、選挙の洗礼を受けるべきと力説していた戸高村長にとってやや拍子抜けすることとなった。

第六代村長となった戸高氏は村民の融和と協調をモットーに村勢の振興に努力し、農林業の近代化と生産性の向上、高所得の実現を図った。その方策として、昭和四十六年中央公民館の完成に合わせ合併二〇周年記念行事を盛大に挙行し、翌四十七年に村章を制定した。
過疎対策の一環として企業誘致も積極的に進められ、「ウラタ大分衣料株式会社」の第一号誘致が決定し、昭和四十八年六月から操業が開始された。

向船場団地
向船場団地

また、第二次林業構造改善事業の指定を受け、林業の基盤整備及び直川村森林組合の機械化などを図った。また、宮崎県の北川町とを結ぶ農免林道陸地直川線及び本匠村とを結ぶ農免林道板屋横手線が相次いで着工された。さらに、生活面では1日Kテレビ直川中継所の開局に尽力してテレビの難視聴地域の解消に努め、川原木簡易水道の開設、幼稚園舎の新築、保育所の増築、向船場橋の建設などが行われ、住みよい環境施設が充実した。


任期満了による村長選挙は、昭和五十年四月二十七日統一地方選挙の最後を飾る県下市町村長並びに議会議員選挙とともに行われた。二期目の挑戦となった戸高長生候補と元村長の小野恒記候補の一騎打ちとなったが開票の結果戸高長生候補が一六八五票を獲得し、小野候補は一〇五二票で、六三三票の大差で第七代村長に就任した。
二期目の当選を果たした戸高村長は福祉政策を重点に掲げ、豊かな村づくりをキャッチフレーズに過去四年間の実績を生かし、道路、橋梁の整備を図るとともに、向船場団地三四戸の完成、福祉の村直川の活動の拠点となる老人福祉センター「緑泉」の建築、地域住民の念願であった村営バスを赤木線に運行開始させるなど住民の福祉・生活環境の整備に貢献した。
しかし就任後僅か一年半6·7代余りで体の不調を訴え、入院し療養することとなった。その後骨髄の難病であることが判明し、東京の病院に転院加療を続けたが、その甲斐なく昭和五十二年五月十六日逝去された。働き盛りの五十四歳であった。村にとって現職村長の逝去は初めてのことで五月二十一日学校体育館で村向船場団地葬が行われ、多くの村民が参列し別れを惜しんだ。

八代村長

八代村長 戸高村長の急逝により昭和五十二年六月十九日村長稲好安人選挙の告示があり助役の稲好安人氏が立候補し投票で第八代直川村長に就任した。

主な施策としては前村長の施策を継承し、農村基盤総合整備事業、第三期山村振興事業、第二次林業構造改善事業などを中心に事業を実施し、林道の開設、画場整備事業を推進し、電照菊栽培を奨励して所得の向上を図り、生活改善センターの建設事業、村道の開設、改良を進めた。

村民体育館
村民体育館

また回線が少ないためかかりにくい電話の自動化を推進し、農村集団電話を廃止して一般電話化に努め、さらに役場と地域を結ぶ同時放送無線施設を設置して、広報活動の充実を図った。モデルの指定を受け、村民体育館の建設、村民グラウンドの造成工事着工、精神薄弱者更生施設「なおみ園」の誘致、村内誘致企業第二号「株式会社ニューアクト」操業開始と多くの事業を実施し、村民の生活環境の整備・福祉の向上・健康の増進・産業の基盤整備に貢献した。

第九代目村長


任期満了による昭和五十六年六月十四日執行の村長小野春雄九代村長選挙に、新人の河村清氏と現職村長の稲好安人氏が立候補を表明し、一騎打ちの様相であったが告示前になって稲好氏が立候補を断念したため、急遽当時の助役であった小野春雄氏が立候補を表明し、新人同士の村を二分する激しい戦いとなった。開票の結果一三六九票対一三六八票の僅かに一票差で小野春雄候補が当選し第九代村長に就任した。

小野村長は激戦の選挙での村民間のしこり解消と民意の結集に留意し、昭和五十六年秋に合併三〇周年記念行事を盛大に開催するなど村民の融和と協調を図り、村民憲章や、村木(直見杉)・村花(つつじ)の制定を行った。

直川村役場
直川村役場 新庁舎

施策としては前稲好村長の政策を受け継ぎ、赤木地区に県営農免農道整備事業·山村振興事業・団体営圃場(ほじょう)整備事業・新林業構造改業などを実施し、山村開発センターの建設、村民グラウンド建設、柔剣道場の建設、村道の開設・改良、園橋・椛ヶ原橋などの橋梁の建設、地区の集会所建設、老朽化した村営住宅萱垣団地の建て替えなどを積極的に行い、住民の生活環境、基盤整備、住民福祉施策を展開した。また昭和五十七年に仁田原地区に特別養護老人ホーム「直川苑」を誘致、翌年六月開所させ、昭和二十八年に建設された役場庁舎が老朽化したため、昭和六十年三月新庁舎建設の議会決議を議決するなど村の活性化にも努力した。

ー 直川村誌 P440~443抜粋 -

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